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最高裁判所第三小法廷 平成10年(オ)1082号 判決

上告人・附帯被上告人

右代表者法務大臣

臼井日出男

右指定代理人

山崎潮

外一五名

被上告人・附帯上告人

甲野太郎

外三名

右四名訴訟代理人弁護士

赤松岳

野口勇

石下雅樹

主文

本件上告及び附帯上告を棄却する。

上告費用は上告人の、附帯上告費用は附帯上告人らの負担とする。

理由

上告代理人細川清、同富田善範、同齊木敏文、同永谷典雄、同山中正登、同大竹たかし、同林圭介、同中垣内健治、同近藤秀夫、同渡部義雄、同山口清次郎、同平賀勇吉、同星昭一、同安岡邦信、同小林隆之、同高柳安雄の上告理由について

一  原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

1  亡甲野春子(以下「春子」という。)は、昭和四年一月五日に出生し、同三八年から「エホバの証人」の信者であって、宗教上の信念から、いかなる場合にも輸血を受けることは拒否するという固い意思を有していた。春子の夫である被上告人・附帯上告人甲野太郎(以下「被上告人太郎」という。)は、「エホバの証人」の信者ではないが、春子の右意思を尊重しており、同人の長男である被上告人・附帯上告人甲野次郎(以下「被上告人次郎」という。)は、その信者である。

2  上告人・附帯被上告人(以下「上告人」という。)が設置し、運営している東京大学医科学研究所附属病院(以下「医科研」という。)に医師として勤務していた乙山三郎は、「エホバの証人」の信者に協力的な医師を紹介するなどの活動をしている「エホバの証人」の医療機関連絡委員会(以下「連絡委員会」という。)のメンバーの間で、輸血を伴わない手術をした例を有することで知られていた。しかし、医科研においては、外科手術を受ける患者が「エホバの証人」の信者である場合、右信者が、輸血を受けるのを拒否することを尊重し、できる限り輸血をしないことにするが、輸血以外には救命手段がない事態に至ったときは、患者及びその家族の諾否にかかわらず輸血する、という方針を採用していた。

3  春子は、平成四年六月一七日、国家公務員共済組合連合会立川病院に入院し、同年七月六日、悪性の肝臓血管腫との診断結果を伝えられたが、同病院の医師から、輸血をしないで手術することはできないと言われたことから、同月一一日、同病院を退院し、輸血を伴わない手術を受けることができる医療機関を探した。

4  連絡委員会のメンバーが、平成四年七月二七日、乙山医師に対し、春子は、肝臓がんに罹患していると思われるので、その診察を依頼したい旨を連絡したところ、同医師は、これを了解し、右メンバーに対して、がんが転移していなければ輸血をしないで手術することが可能であるから、すぐ検査を受けるようにと述べた。

5  春子は、平成四年八月一八日、医科研に入院し、同年九月一六日、肝臓の腫瘍を摘出する手術(以下「本件手術」という。)を受けたが、その間、同人、被上告人太郎及び同次郎は、乙山医師並びに医科研に医師として勤務していた丙野四郎及び丁山五郎(以下、右三人の医師を「乙山医師ら」という。)に対し、春子は輸血を受けることができない旨を伝えた。被上告人次郎は、同月一四日、乙山医師に対し、春子及び被上告人太郎が連署した免責証書を手渡したが、右証書には、春子は輸血を受けることができないこと及び輸血をしなかったために生じた損傷に関して医師及び病院職員等の責任を問わない旨が記載されていた。

6  乙山医師らは、平成四年九月一六日、輸血を必要とする事態が生ずる可能性があったことから、その準備をした上で本件手術を施行した。患部の腫瘍を摘出した段階で出血量が約二二四五ミリリットルに達するなどの状態になったので、乙山医師らは、輸血をしない限り春子を救うことができない可能性が高いと判断して輸血をした。

7  春子は、医科研を退院した後、平成九年八月一三日、死亡した。被上告人・附帯上告人ら(以下「被上告人ら」という。)は、その相続人である。

二  右事実関係に基づいて、上告人の春子に対する不法行為責任の成否について検討する。

本件において、内田医師らが、春子の肝臓の腫瘍を摘出するために、医療水準に従った相当な手術をしようとすることは、人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者として当然のことであるということができる。しかし、患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。そして、春子が、宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しており、輸血を伴わない手術を受けることができると期待して医科研に入院したことを乙山医師らが知っていたなど本件の事実関係の下では、乙山医師らは、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定し難いと判断した場合には、春子に対し、医科研としてはそのような事態に至ったときには輸血するとの方針を採っていることを説明して、医科研への入院を継続した上、乙山医師らの下で本件手術を受けるか否かを春子自身の意思決定にゆだねるべきであったと解するのが相当である。

ところが、乙山医師らは、本件手術に至るまでの約一か月の間に、手術の際に輸血を必要とする事態が生ずる可能性があることを認識したにもかかわらず、春子に対して医師研が採用していた右方針を説明せず、同人及び被上告人らに対して輸血する可能性があることを告げないまま本件手術を施行し、右方針に従って輸血をしたのである。そうすると、本件においては、乙山医師らは、右説明を怠ったことにより、春子が輸血を伴う可能性のあった本件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪ったものといわざるを得ず、この点において同人の人格権を侵害したものとして、同人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである。そして、また、上告人は、乙山医師らの使用者として、春子に対し民法七一五条に基づく不法行為責任を負うものといわなければならない。これと同旨の原審の判断は、是認することができ、原判決に所論の違法があるとはいえない。論旨は採用することができない。

附帯上告代理人赤松岳、同野口勇、同石下雅樹の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、違法をいう点を含め、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難し、独自の見解に立って原審の右判断における法令の解釈適用の誤りをいうか、又は原審の裁量に属する慰謝料額の算定の不当をいうものであって、採用することができない。

よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官千種秀夫 裁判官元原利文 裁判官金谷利廣 裁判官奥田昌道)

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